常設展 最終更新日:2025年4月25日 (ID:7936) 印刷 世界文化遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」ガイダンスコーナー世界遺産のとしての価値「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の価値や構成資産の概要を学べるコーナー。ジオラマや沖ノ島出土品のレプリカなどを展示しており、視覚的・体感的に楽しく世界遺産を学ぶことができます。映像展示大型スクリーン7m×18mの大迫力のスクリーンで、世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の概要や沖ノ島祭祀遺跡の様子を体感することができます。シアタールーム世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」について、沖ノ島島内をはじめとする構成資産について学べるミニシアターです。小学生向けのコンテンツもご用意しています。宗像の歴史ヒトの来た道いまから3~4万年前の地球は、氷河期の寒冷化によって海水面が低下し、対馬海峡などの浅海は半島や大陸と陸続きか、それに近い状態となりました。私たちの祖先はここを通って大陸から移動してきたのです。稲作文化が渡った道弥生時代は、大陸から稲作と金属器が伝来した時代です。稲作の伝来は、縄文時代から続いた狩猟・採集・漁労を中心とした生活を終わらせ、新たな社会・文化を形成しました。また、金属器の伝来は生産効率を高め、人々の生活を大きく変えました。最先端技術が渡った道古墳時代は、国内の統一が進み各地に古墳が造られた時代です。朝鮮半島や中国大陸からの渡来人たちは、多くの新しい文化とともに新しい技術も伝えました。須恵器生産に必要なのぼり窯(窖窯:あながま)や鍛冶技術などの最先端技術は、生活に大きな変化を与えました。半島・大陸との交流の道古墳時代には、大和政権や豪族によって朝鮮半島や中国大陸と盛んに交流が行われるようになります。交流により多くの文化が玄界灘を渡り、互いに取り入れられました。交流を示す資料は、日本や朝鮮半島の古墳から出土しています。拡大する海外交易の道奈良・平安時代には、国家の威信をかけ、遣唐使を通じて対外交渉がおこなわれました。やがて鎌倉時代になると、日宋貿易がはじまり、中国の貿易商人との間で私的な交易がおこなわれるようになります。その後、中国の国号が元に代わっても交易はつづけられ、室町時代には、日明貿易がはじまり、正式な交易には勘合符を使用しました。街道と海女の道古来より宗像は、郡と大宰府を結ぶ場所にあり、道路が整備されてきました。江戸時代、唐津街道が整備され宗像の赤間や原町が発展しました。また、優れた航海技術を持った鐘崎の海女は、江戸時代には好漁場を求めて日本海沿岸を広範囲に移動するようになりました。沖ノ島祭祀前夜―弥生時代の首長たち―古くより、人や物が絶え間なく往来した玄界灘。この海原で活動した宗像海人は、4世紀後半以降、ヤマト王権と結び、沖ノ島における国家的祭祀を執り行った。その前夜、弥生時代の宗像では、大量の武器形青銅器を副葬する田熊石畑遺跡の墳墓群などの出土品から有力集団の成立がうかがえる。青銅器・墓制・交流をキーワードに、弥生時代の首長層の動向を探る。
世界文化遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」ガイダンスコーナー世界遺産のとしての価値「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の価値や構成資産の概要を学べるコーナー。ジオラマや沖ノ島出土品のレプリカなどを展示しており、視覚的・体感的に楽しく世界遺産を学ぶことができます。映像展示大型スクリーン7m×18mの大迫力のスクリーンで、世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の概要や沖ノ島祭祀遺跡の様子を体感することができます。シアタールーム世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」について、沖ノ島島内をはじめとする構成資産について学べるミニシアターです。小学生向けのコンテンツもご用意しています。宗像の歴史ヒトの来た道いまから3~4万年前の地球は、氷河期の寒冷化によって海水面が低下し、対馬海峡などの浅海は半島や大陸と陸続きか、それに近い状態となりました。私たちの祖先はここを通って大陸から移動してきたのです。稲作文化が渡った道弥生時代は、大陸から稲作と金属器が伝来した時代です。稲作の伝来は、縄文時代から続いた狩猟・採集・漁労を中心とした生活を終わらせ、新たな社会・文化を形成しました。また、金属器の伝来は生産効率を高め、人々の生活を大きく変えました。最先端技術が渡った道古墳時代は、国内の統一が進み各地に古墳が造られた時代です。朝鮮半島や中国大陸からの渡来人たちは、多くの新しい文化とともに新しい技術も伝えました。須恵器生産に必要なのぼり窯(窖窯:あながま)や鍛冶技術などの最先端技術は、生活に大きな変化を与えました。半島・大陸との交流の道古墳時代には、大和政権や豪族によって朝鮮半島や中国大陸と盛んに交流が行われるようになります。交流により多くの文化が玄界灘を渡り、互いに取り入れられました。交流を示す資料は、日本や朝鮮半島の古墳から出土しています。拡大する海外交易の道奈良・平安時代には、国家の威信をかけ、遣唐使を通じて対外交渉がおこなわれました。やがて鎌倉時代になると、日宋貿易がはじまり、中国の貿易商人との間で私的な交易がおこなわれるようになります。その後、中国の国号が元に代わっても交易はつづけられ、室町時代には、日明貿易がはじまり、正式な交易には勘合符を使用しました。街道と海女の道古来より宗像は、郡と大宰府を結ぶ場所にあり、道路が整備されてきました。江戸時代、唐津街道が整備され宗像の赤間や原町が発展しました。また、優れた航海技術を持った鐘崎の海女は、江戸時代には好漁場を求めて日本海沿岸を広範囲に移動するようになりました。沖ノ島祭祀前夜―弥生時代の首長たち―古くより、人や物が絶え間なく往来した玄界灘。この海原で活動した宗像海人は、4世紀後半以降、ヤマト王権と結び、沖ノ島における国家的祭祀を執り行った。その前夜、弥生時代の宗像では、大量の武器形青銅器を副葬する田熊石畑遺跡の墳墓群などの出土品から有力集団の成立がうかがえる。青銅器・墓制・交流をキーワードに、弥生時代の首長層の動向を探る。