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時間旅行ムナカタ第6回 宗像出身の新撰組隊士 立川主税

更新日:2015年03月17日

宗像出身の新撰組隊士

新撰組と宗像?

新撰組といえば、美男の天才剣士・沖田総司、鬼の副長・土方歳三、人望厚き局長・近藤勇ら個性豊かな剣士たちが、徳川の世を守るため尊王倒幕の志士たちと激闘を繰り広げ、太く短く生き抜く姿が思い浮かびます。

これには、子母沢寛(しもざわかん)・司馬遼太郎の著作や映画、ドラマなどでつくられたイメージが強いのですが、歴史的事実をたどっても、彼らの生きざまには魅力があります。

そこで今回は、新撰組の隊士の一人に宗像市鐘崎出身者がいたという、あまり知られていない事実をご紹介します。

入隊のきっかけ

立川主税は天保6(1835)年、鐘崎浦の町人・喜六の子として生まれました。立川主税という名は町人らしくなく、本名ではないと思われます。しかし、静かな漁村である鐘崎に生まれた若者が、なぜ改名し、上京して新撰組へ入隊することになったのでしょうか。

直接的に知る史料はありませんが、当時の鐘崎村の若者は、福岡藩の長崎警備に水夫役(かこやく)として徴用されていたことがヒントになります。おそらく、立川も長崎警備を経験し、武士の下働きをするなかで見聞を深め、入隊の意志を強く持つようになったと考えることもできます。

立川主税の戦歴

新撰組には、大政奉還が行われた慶応3(1867)年ごろに江戸で入隊したようです。慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦い(京都市)の後、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)として甲州の勝沼(山梨県)で戦いますが敗れてしまいます。さらに下総の流山(千葉県)では新政府軍に包囲され、ここで隊長の近藤勇は投降し、後に斬首刑に処せられています。この後も他の隊士と会津(福島県)へ落ち、次第に新政府軍に追い詰められていきます。

明治元(1868)年10月には仙台(宮城県)から蝦夷(えぞ・北海道)へと渡海し、函館(北海道)では土方歳三の附属(付き人)となって函館戦争を戦い、明治2年5月11日の土方の最後の時にも居合わせていました。

敗戦濃厚な中、立川は仲間から土方の死を日野(東京都)の実家に知らせよと命じられ、函館を脱出しようとしますが、あえなく新政府軍に捕えられてしまい、秋田藩や東京での謹慎処分を受けるなど、使命をまっとうできない日々が続きました。

仏門に入る

仏門ようやく立川が日野の土方家と佐藤家を訪れたのは明治5(1872)年のことでした。自ら書き記した「立川主税戦争日記」を携え、土方の親族に最後の様子を語ったようです。

その後、立川は元僧侶で新撰組隊士だった斎藤一諾斎(いちだくさい)に会い、そこで彼とどのような語らいがあったのかはわかりませんが、仏門に入ることを決意します。

明治18(1885)年には山梨県の地蔵院住職となり、土方歳三ら亡くなった新撰組隊士の冥福を祈りながら、明治36(1903)年1月22日、68才で亡くなりました。

右図:立川が住職を務めた 地蔵院(山梨県笛吹市)

ふるさとへの思い

立川は幕末という時代の節目に生まれ、人生の前半は、強い意志をもって新撰組に入隊。戦いと敗走に明け暮れ、後半は戦死した隊士を弔い仏に仕えるという2つの対極的な人生を生きたといえます。

この生きざまは、竹山道雄著「ビルマの竪琴」で、水島上等兵が第2次大戦末期にビルマ戦線で亡くなっていった戦友の英霊を弔うため、帰国の思いを捨て現地で僧侶となる姿を思い起こさせます。

立川もふるさと鐘崎に対する望郷の念は持っていたのでしょうが、その気持ちは出家を決意した時、心深く沈めたように思われてなりません。ここでは、水島上等兵の青いインコが帰国する水島の仲間たちへ叫ぶ言葉に、立川の心中をうつし見ておくことにします。

「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」

(文化財職員白木英敏)

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