更新日:2018年1月5日
『新修宗像市史』近代部会から
近代部会では、明治期から昭和戦前期までの時代を対象に記述を進めています。今回は、地島にある石碑にも名が刻まれている太田種次郎の出漁の功績と漁業移住について紹介します。
朝鮮出漁の始まり
近代では、宗像から朝鮮へ出漁したり、朝鮮に移住し漁業を営んだりした者がいました。福岡県からの朝鮮出漁は明治24年に筑前国沿海漁業組合連合会(後の筑豊水産組合)が県の補助を得て出漁したのが最初で、鐘崎、地島の漁民も加わっていました。この時は思わしい結果を残せず、後が続きませんでした。その後、出漁者が次第に増加し、日露戦争が終わると、朝鮮出漁は頂点に達し、移住漁村の建設も始まりました。
朝鮮出漁と漁業移住
朝鮮出漁は5から6艘(1艘は3人乗り)で船団を組み、
帆走と櫓(ろ)漕ぎで釜山に渡り、
慶尚北道(キョンサンプクト)・九龍浦(クリョンポ)を根拠にサワラ曳縄(ひきなわ)、タイ延縄(はえなわ)を操業し、漁獲物は鮮魚運搬船に販売。漁期は8月から12月までの出稼ぎ漁でした。
一方、大正初期の漁業移住は県全体で197戸、うち筑豊水産組合のものが87戸あり、宗像地区では大島、鐘崎、地島からの24戸でした。
移住先は慶尚南道(キョンサンナムド)の長承浦(チャンスンポ、入佐村ともいう)、方魚津(パンオジン)、江原道(カンウォンド)の熢燧津(ポンスジン)の3カ所で、サワラ曳縄、タイ延縄を営なむか、サバ巾着網(きんちゃくあみ)の乗組員として働いていました。
朝鮮出漁の創業者・太田種次郎(おおたたねじろう)
移住漁村のほとんどが失敗しましたが、数少ない成功例は地島出身の太田種次郎が経営した入佐村でした。太田は岬村の村長でしたが、朝鮮出漁に関心を持ち、福岡県で最初の朝鮮出漁を推進。
その後も朝鮮の水産業に関わり、日露戦争後には地島の漁民を率いて入佐村の再建に着手。入佐村は太田らが開いた村でしたが、暴風被害に遭ったり、漁獲物の販売に不便なことから放棄されていました。
大正8年には165戸、693人の村となり、学校、郵便局、駐在所、医院、旅館なども備わった入佐村は朝鮮最大のサバ漁業の根拠地となり、漁期になると多数の巾着網、運搬船が集結。漁獲物は運搬船で博多、下関、大阪に送られました。太田もサバ巾着網、魚問屋、運搬業を営んでいました。
宗像と朝鮮の漁業
昭和期に入ると漁船は動力船になりましたが、朝鮮出漁は少なくなりました。漁業移住は集団的移住から個々の移住へと変わり、宗像の漁民も減少しました。
宗像からの朝鮮出漁や漁業移住は、とくに盛んではありませんでしたが、太田種次郎という優れた先導者が朝鮮での日本人漁業の一大拠点を形成していたことは大いに注目されるところです。
(近代部会・片岡千賀之)
このページに関する問い合わせ先
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