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時間旅行ムナカタ第81回「幕末維新期の宗像と志士早川勇と徳重正雄」

更新日:2018年01月04日

『新修宗像市史』近世部会から

 来年2018年は明治元(1868)年から数えて150年、明治維新150周年です。大河ドラマも維新の三傑・西郷隆盛を主人公にした「西郷(せご)どん」で、幕末維新の歴史にも注目が集まります。

 今回は、幕末維新期の宗像の歴史を知る上で基礎的な文献資料『宗像郡誌』に紹介されている幕末維新期の人物、早川勇と徳重正雄について紹介します。

 

五卿(ごきょう)の西遷(せいせん)と早川勇

 吉武村の医師だった早川勇(養敬)は福岡藩の勤王の志士で、西郷隆盛や高杉晋作らと交流し国事周旋に奔走したことで知られます。元治2・慶応元(1865)年、「五卿の西遷」を実現したのも早川の周旋(しゅうせん・仲介や世話すること)によるものです。

 三条実美ら5人の公卿一行は長州藩から筑前福岡藩に渡海、黒崎に上陸し、木屋瀬(こやのせ)を経て赤間往還を通り赤間着。赤間では福岡藩の客館「御茶屋」に滞在することになりました。五卿は一時期、5人別々に宗像郡内の寺院などに、お預け(江戸時代の刑罰の一種)になるところでしたが、福岡藩の加藤司書や月形洗蔵、早川勇、西郷隆盛ら薩摩藩士の周旋によって5人そろって太宰府への移転(動座)となり、幕末の政情は大きく維新回天への道へと動いていきます。

 早川勇は、明治以降は明治維新の語り部となって福岡藩の勤王の志、維新の記憶、郷土の歴史を語り継いでいきます。

 

西郷隆盛と交流のあった徳重正雄

 宗像郡徳重村出身の志士・徳重正雄のことはあまり知られていません。

 彼の履歴について『宗像郡誌』では、徳重正雄は元の姓を石松といい、徳重村の庄屋・大庄屋を務めた石松伴蔵の嫡子で、三蔵、三郎平、泰次郎、正巳と称しました。正雄は、福岡藩の勤王の志士、月形洗蔵に国学や国史、漢詩・漢文学などの学問の薫陶を受け、勤王の志を抱くようになりました。文久2(1862)年に徳重村庄屋役、慶応3(1867)年には赤間村庄屋役を命じられ奉職しました。

 明治維新後は、明治2(1869)年に福岡藩を脱藩、鹿児島藩(薩摩藩)に遊学し、藩校造士館の漢学寮に入学しました。彼の父宛ての手紙では、鹿児島遊学中は西郷隆盛(吉之助)と交遊を深め、鹿児島藩から学費や生活費を支給されたそうです。

 

徳重正雄の海外留学と志

 明治3(1870)年福岡藩に脱藩を許され、藩費で東京遊学のため上京。明治4(1871)年に外国語専門学校に入学し、ドイツ語を学びました。また、明治5(1872)年に私費でドイツ「ハイドルベルヒ」に留学、簿記や財政学、経済学なども学び、イギリスやフランスなど欧州各地を巡遊しました。その後病弱になり、日本に帰国。明治11(1878)年、大阪第五十八国立銀行の設立に際し取締役として携わり、明治19(1886)年には宗像郡から県議会議員にも選出されています。宗像高校の資料館(四塚会館)には、彼の海外留学時代の記録が所蔵されています。

 徳重正雄のような己の志を遂げた宗像出身の人物のことをもっと広く知り、郷土宗像を再発見して頂ければ幸いです。

(新修宗像市史編集委員会近世部会長・竹川克幸)

 

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  • 五卿西遷記念碑(浄土宗法然寺横)の画像

    五卿西遷記念碑(浄土宗法然寺横)

  • 早川勇関係資料展示(街道の駅 赤馬館)の画像

    早川勇関係資料展示(街道の駅 赤馬館)

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