更新日:2015年3月18日
人が移動するのに欠かせない道
古代では、都(みやこ)と地方を最短距離で結ぶ道路を整備して「官道(かんどう)」(現在の国道)と呼びました。今までの調査で発見された官道は、6メートルから12メートル程度の幅で、両側に側溝が設けられていました。
官道には、人や馬などを備えた「駅家(うまや)」という施設が30里(約16キロ。当時の1里は約530メートルといわれています)ごとに設けられました。駅家では、都と地方を行き来する役人や外交使節が、馬を交換したり休息したりしました。これは「駅制(えきせい)」と呼ばれ、7世紀ごろに確立されたと考えられています。文書を持った役人が、駅で馬を乗り換えながら目的地まで行くことが元となり、文書をタスキに変えたスポーツが、陸上競技の駅伝です。
市内に駅家があった?
昭和58年、武丸大上げ遺跡がJRの城山トンネル入口の東側で発掘調査されました。この場所は、現在も交通の大切な地点となっていますが、官道の想定ルートもここを通ります。
遺跡からは長方形で大型の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が2棟確認され、大量の瓦も出土しました。瓦は、鬼の顔を表現した鬼瓦、ハスの形をあしらった軒丸瓦(のきまるがわら)、唐草文様(からくさもんよう)をあしらった軒平瓦などです。
武丸大上げ遺跡出土鬼瓦(上)、軒平瓦と軒丸瓦(下)
この掘立柱建物は、都が平安京へ移された8世紀後半世紀から9世紀前半に造られたと考えられています。古代の瓦ぶきの建物は、「官衙(かんが)」(役所)、寺院、貴族の居館(きょかん)など、ごく限られたものでした。武丸大上げ遺跡の建物は、立地条件と配置の状況から官衙の1つの駅家ではないかと考えられています。
武丸大上げ遺跡全景
武丸大上げ遺跡想定復元図
3つの根拠で駅家の可能性を検証
駅家の根拠は、
- 平安時代に書かれた歴史書「日本後紀(にほんこうき)」には大宰府から都までの駅家は瓦ぶきで、白壁造りであった
- 調査された古代の山陽道の駅家には、峠を越えた山際に位置する例がある
- 平安時代の法律を記した「延喜式(えんぎしき)」には駅名と駅馬(役人が官道で移動のときに使用する馬)の数
が記されていることです。
仮に、嶋門(しまと)駅を浜口廃寺(芦屋町字月軒)、津日(つひ)駅を畦町遺跡(福津市畦町)、席打(むしろうち)駅を古賀市筵内(むしろうち)と考えると、嶋門駅と津日駅の間に武丸大上げ遺跡が入ることで、約10キロの等距離の位置になります。
また、駅馬の数は、嶋門駅が23頭、津日駅が22頭で、その前後の駅は15頭と記してあり、武丸大上げ遺跡には15頭が割り当てられたと考えられます。以上の3点から、武丸大上げ遺跡は駅家である可能性が高いのです。
都の文化が残る吉武地区
武丸大上げ遺跡が駅家跡で、官道が通っていたとすれば、久戸(くど)の大日堂、長宝寺観音堂、平山大師堂に平安時代に造られた仏像が多く残されていることもうなずけます。
この辺りは、安土桃山時代以降、唐津街道が整備され赤間宿ができたように、昔から交通の要所だったようです。その繁栄を見守っていた鬼瓦を、海の道むなかた館で展示しています。ぜひ見に来てください。
(文化財職員・坂本雄介)
このページに関する問い合わせ先
教育部 世界遺産課 文化財係
場所:海の道むなかた館
電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601
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