更新日:2016年4月13日
海の道むなかた館は、開館から5年目を迎え、地域の暮らしや宗像遺産に焦点を当てた展示を企画。今年は、釣川中流域の稲元八幡宮と地域遺産。発掘調査で出土した弥生時代から古墳時代の遺物、解体された稲元八幡宮拝殿の建築部材や絵馬などを展示し、石造物などの写真パネル紹介や、川祭りの様子を復元展示します。新修宗像市史の編さん事業の調査成果と併せて、今後も継続して実施する予定です。入場無料。
期間
4月26日(火曜日)~6月12日(日曜日)月曜日は休館
場所
海の道むなかた館・常設展示室(企画展示ブース)
「稲元」の名前の由来
稲元は、現在の稲元・城西ヶ丘1~6丁目の範囲です。釣川の中流右岸を中心とし、左岸側の川沿いも稲元になります。
「稲元」という名称の最も古い記述は、仁平4(1154) 年銘の滑石製経筒外面に刻まれた「稻本」です。応永5(1398)年の文書にも「稻本村」とあり、平安時代から戦国時代にかけては、「稻本」の名称が使われていたことが分かります。宗像大社蔵の天正6(1578)年銘置札には、「稲元村」が見えることから、江戸時代以降には現在の「稲元」の名称が定着したものと思われます。
「稲元」は、宗像での稲作発祥の地として名付けられたとの説がありますが、左岸中流域の朝町川・高瀬川などは釣川に合流する地点が稲元付近であり、農業生産物などの集積地としての役割を果たしていたことも、語源の一つと考えられます。
稲元の移り変わり
今から約2200年前、弥生時代の稲元久保遺跡(現河東中学校)から穀物貯蔵穴や素掘りの墓が発掘調査され、谷あいに小規模なムラが営まれていました。
古墳時代に入ると、1600年前の稲元久保遺跡に鏡、玉を副葬した前方後円墳が築かれ、その100年後には、宗像地域で最も古い須恵器窯跡である稲元日焼原遺跡(現城西ヶ丘)が営まれ、焼かれた須恵器は周辺の古墳に供給されていました。
900年前には、稲元八幡宮境内付近に仁平4(1154)年と刻まれた滑石製経筒が埋納され、明治35年の発見を経て、国指定の重要文化財になりました。
今から400年ほど前の1600年代のムラの記録では、農作物の生産高は843石余りでした。1700年代には、大規模な釣川改修が実施されて現在の姿となり、流域の農業生産力が向上して、生産高は1278石になりました。
近代の稲元は、明治4(1871)年の区制で筑前34区のうちの第7区となり、明治5(1872)年の大区小区制度で、宗像郡は第4大区に編成され、稲元村、河東村、田礼村、池浦村は第16小区となりました。
(文化財職員・原俊一)
稲元八幡宮の万延元年桜下武者図絵馬
このページに関する問い合わせ先
教育部 世界遺産課 文化財係
場所:海の道むなかた館
電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601
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