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時間旅行むなかた第31回 アワビなどを求めて「アマアルキ」大島の海女

更新日:2015年03月18日

大島の海女

鐘崎の海女は「日本海沿岸の海女」の発祥地として有名ですが、今回は、鐘崎の対岸にある大島の海女の移動を追ってみます。

干アワビの需要

江戸時代の貿易で、支払いに使用されていた金・銀・銅の生産量が落ち、元禄11(1698)年に俵物(干アワビ、フカヒレ、イリナマコなど)を貿易支払品とするようになりました。干アワビの需要が増え、海女たちは、獲物を求めて各地へ移動するようになりました。

アワビの生息する岩場が少ない鐘崎の海女は、貝原益軒(えきけん)の『筑前国続風土記』に、「凡(おおよ)そ国中の潜女(かずきめ)の居所四箇所あり、鐘崎、大島、波津浦、弘浦也(なり)。此所(ここ)の海辺は、皆女かづきをなし、鮑(アワビ)を捕り、熨斗(のし)鮑をきり、栄螺(サザエ)、海夫人(いがい)を取りて家業とする。此内(このうち)鐘崎の潜女たちの事勝れり」と称される海女漁の技術を生かし、獲物を求めて日本海沿岸各地へと「アマアルキ」(季節移動)をしていたことでも有名です。

また、周囲を海に囲まれ、魚類、海藻類、貝類の宝庫であった大島からも、アワビの需要に応えるため角島(山口県下関市)へ入漁するようになりました。

角島での海女漁

角島は、山口県西部にある面積4.3平方キロメートルの小島で、明治30年代まで漁業権を持たない農耕主体の島でした。近世は、藩に献上するアワビなどの海産物を確保するため、玄界灘沿岸の海人(あま=漁民)たちに磯を開放していました。また、角島の庄屋は、海女漁はもちろん、ノシアワビを作る技術が優れていた海人の派遣を、大島や鐘崎の庄屋へ依頼しています。

安川浄生(じょうせい)の「筑前大島の海女」によると、大島の海女は、一家全員が三反帆(さんたんほ)の小舟に乗り角島に渡り、6月から9月ごろにかけて浜に小屋を建て、漁を実施しました。海女の保護のため、藩から米や塩が与えられ、代わりに干アワビやノシアワビを藩に納めています。献上納めのときは、角島の庄屋が直接受け取り、決して下に置くことなく、人の手から人の手へと藩に献上していたといわれています。

角島の勝安寺(しょうあんじ)の裏山の墓地からは、海を望むことができ、島で命を落とした大島、鐘崎の海人が葬られています。そこには「筑前大島・田志清右衛門」や「鐘崎海士・権田兵太郎長男冨吉」などと記された墓が約100基あります。

勝安寺の裏山

勝安寺の裏山にある、大島、鐘崎の海人の墓(下関市立豊北歴史民俗資料館提供)

夏泊の海女

鐘崎の海人が石川県に移住したように、大島の海人も夏泊(なつどまり=鳥取県鳥取市青谷町)に移住しています。因幡国(いなばのくに)鹿野城城主である亀井茲矩(これのり)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役/1592年から1593年)の時、軍船の船頭に、筑前梶免(かじめ)村(大島村)漁師である助右衛門を雇い、九州から朝鮮に出陣しました。茲矩は、助右衛門の功績にむくいるため、

  1. 夏泊への居住
  2. 潮津浜から長尾境の入漁
  3. 畑、屋敷、海の運上金(税金)免除(『夏泊浦旧格由緒書上』から)

の特権を、助右衛門夫妻に与えました。文禄3(1594)年、助右衛門夫妻は一族を率いて夏泊に移り住み、男子は網漁、女子は海女漁に従事し、今日に至っているそうです。

後継者問題

潜水漁業は、ウエットスーツの普及で海士(男性のあま)も潜るようになりました。しかし、海産資源の減少とともに、重労働の潜水漁業は
若者に敬遠され、全国的に海女の減少が続いています。

現在、大島の海女は5人、鐘崎の海女は2人で、いずれも高齢者であることから、「日本海沿岸の海女の発祥地」である鐘崎や大島の海女漁の伝統を守るためには、後継者を育てる必要があります。

一口メモ カジメの大島

大島は、磯場にアワビの餌であるカジメ(海藻)が豊富であったこと、また、玄界灘を航海する船が、大島を目印にかじを切ったことから「カジメの大島」とも呼ばれていました。

(文化財職員・判田博明)

角島の勝安寺

角島の勝安寺(下関市立豊北歴史民俗資料館提供)

このページに関する問い合わせ先

市民協働環境部 郷土文化課
場所:海の道むなかた館
電話番号:0940-62-2600
ファクス番号:0940-62-2601

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