更新日:2018年8月9日
日本人だけで約310万人もの死者を出し、国土の主要部が焦土と化す結果となったアジア・太平洋戦争の終結から、73回目の夏を迎えました。
これまで宗像では、空襲の被害の記録は見当たりませんが、徴兵制のもと、多くの人が軍人となり戦地へ出征しました。では、宗像で徴兵された人たちは、その後どの戦地へ赴いたのでしょうか。
その手がかりを忠魂碑にみることができます。忠魂碑(忠霊塔や忠魂祠)とは、明治時代以降の戦死者をまつる石碑で、戦死地としてビルマ、ガダルカナル、フィリピンが多く記されています。これは、宗像で徴兵された人の多くが「郷土部隊」とよばれた小倉、福岡、久留米の陸軍部隊に入隊し、これらの戦地へ出征したためです。なかでも福岡の歩兵第124連隊は、食糧などの補給が無く餓島ともいわれたガダルカナル島で戦ったのちビルマのインパールへと転戦しています。
当時の軍人たちの多くは、一般から徴兵された人です。出征した人々の中には帰郷を果たせず、故郷の家族や山河を思いながら戦地にたおれた人がいたことも忘れてはならないでしょう。
(文化財職員・池田)
神湊の忠魂祠
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教育部 世界遺産課 文化財係
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電話番号:0940-62-2600
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