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祭祀の変遷
沖ノ島祭祀は時代の流れと共にその形態が「岩上→岩陰→半岩陰・半露天→露天」の4段階に変化し、奉納品もそれに伴い変わっていきました。
岩上祭祀(がんじょうさいし)

22号遺跡 ヤマト王権による沖ノ島祭祀のうち、最古の段階にあたる4世紀後半から5世紀頃の祭祀は、巨岩の上で行われました。この時期の祭祀跡には、10メートル以上もある岩の上面に、石を敷き、奉献品を置いて上から積石した例や、割石を方形状に並べて祭壇とし、その中央に依代(よりしろ)と思われる大石を据えた例があり、いずれも、巨岩を神が降臨する磐座(いわくら)にした形態でした。古代の人は天高く聳(そび)え立つ岩に神が宿ると考えていたのです。

22号遺跡 奉献品には、中国の漢・魏代(ぎだい)の舶載鏡(はくさいきょう)やそれを模したボウ製鏡(ぼうせいきょう)、碧玉(へきぎょく)製腕飾(石釧=いしくしろ・車輪石=しゃりんせき・鍬形石=くわがたいし)、鉄製の武器や工具、滑石製祭祀品(玉・剣形品・釧=くしろ・円板・子持勾玉=こもちまがたま)、鉄テイ(てってい)などがあり、これらは前期古墳の副葬品の内容に通じています。特に、銅鏡は、畿内の盟主的な大型古墳の出土例に匹敵する量が出土しました。これは、沖ノ島祭祀にヤマト王権が深く関わっていたことを裏づけるものです。
岩陰祭祀(いわかげさいし)

7号遺跡 5世紀後半から7世紀にかけて、祭場は巨岩の上から巨岩の下の岩陰へと移りました。奉献品を岩陰直下の地面にそのまま納めた例や、ひさしのように前にせり出した巨岩の直下に、ひさしに沿って石を並べて、祭場の区画を明確に示した例などがあります。
この段階には、銅鏡、玉類・釧などの装身具、鉄製の武器・武具・工具、土器(須恵器・土師器=はじき)、金属製雛形祭祀品(鏡・武器・工具・紡織(ぼうしょく)具・楽器)、滑石製祭祀品などが奉献されました。その内容は5世紀後半から
7号遺跡 6世紀の後期古墳の副葬品と等しく、また、朝鮮半島古新羅(しらぎ)製とみられる金製指輪や金銅製馬具(こんどうせいばぐ)、鋳造(ちゅうぞう)鉄斧(てっぷ)、ササン朝ペルシア伝来のカットグラス碗片といった海外からの舶載品は、当時の朝鮮半島との対外交渉を反映するものです。これらの奉献品は、祭祀の際、巨岩のひさしの外郭から出ないように置かれました。
半岩陰・半露天祭祀(はんいわかげ・はんろてんさいし)

5号遺跡
沖ノ島祭祀が、岩陰祭祀から露天祭祀へと移行する過渡的段階にあたるのが半岩陰・半露天祭祀です。7世紀後半になると、それまで巨岩の直下にあった祭場が拡大して岩陰の外まで及ぶようになり、祭場の大部分が露天となりました。従って、この段階は祭場が次第に岩から離れていく時期、すなわち、巨岩祭祀から露天祭祀への転換期とされています。

5号遺跡
奉献品は、玉類、鉄製の武器や工具、土器、金属製雛形祭祀品、滑石製祭祀品など7世紀から8世紀初めのもので、祭場の岩陰と露天部分の両所に置かれました。注目すべきは、中国の東魏代(とうぎだい)の金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう)と唐代の唐三彩長頸瓶(とうさんさいちょうけいへい)で、この段階に舶載品の奉献が朝鮮半島古新羅系から中国系に移行したことがうかがえます。また、新たな現象として、土器と金属製雛形祭祀品の奉納が急増します。つまり、奉献品の内容は、前段階まで見られた古墳副葬品との共通要素が急速に薄れて、祭祀品が主体となるのです。特に金属製雛形祭祀品は、古代の国家法典で規定された宮廷祭祀の祭祀品や神宝と符合することから、この段階は律令祭祀の萌芽(ほうが)期と考えられています。
露天祭祀(ろてんさいし)

1号遺跡8世紀以降の祭祀は、巨岩の集中する地域から離れた露天のゆるやかな斜面で行われました。その祭祀跡は斜面を葺石(ふきいし)して築いた10メートル四方の大型祭壇遺構で、沖ノ島祭祀遺跡の中で最大規模のものです。祭祀ごとに新たに祭場を設けるそれまでの段階と異なり、この段階では、同じ祭場で祭祀が繰り返し行われるようになり、祭場が固定化しました。

1号遺跡
奉献品は、前段階に共通するもののほか、この段階を特徴づけるものとして多種多量の土器、滑石製形代(かたしろ)(人形=ひとがた・馬形=うまがた・舟形=ふながた)、奈良三彩小壺、皇朝銭、八稜鏡(はちりょうきょう)などがあります。奈良三彩小壺は畿内で焼成され、中央から配布されたと考えられるもので、この段階の沖ノ島祭祀に中央政権が深く関わっていたことを物語っています。沖ノ島と同じく海路平安の祭祀が行われた三重県神島(みえけんかみしま)、岡山県大飛島(おかやまけんおおびしま)の出土品にも含まれています。また、弘仁9年(818)初鋳(しょちゅう)の皇朝銭「富寿神宝(ふじゅしんぽう)」は、露天祭祀が9世紀前半以降に行われたことを明らかにしました。

