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祭祀とは(祭祀の意義)
4段階に分かれる祭祀遺跡
沖ノ島の祭祀(さいし)遺跡は、その祭祀の形態から、岩上(がんじょう)祭祀(4世紀後半〜5世紀)、岩陰(いわかげ)祭祀(5世紀後半〜7世紀)、半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半〜8世紀前半)、露天祭祀(8世紀〜9世紀末)の4段階に分けられます。また、それぞれの遺跡からの出土品は、時代ごとに大きな特徴を持ち、そこから朝鮮半島や中国との複雑な国際関係が読み取れます。
初期の岩上祭祀の遺跡からは、銅鏡や鉄製の刀剣などが数多く出土しています。ちょうどヤマト王権が加耶(かや)や百済(くだら)との国交を開始し、鉄の素材を朝鮮半島から輸入していたころにあたります。また、岩陰祭祀の遺跡では、金製指輪など朝鮮半島からの舶載(はくさい)品が多く見られ、ヤマト王権と朝鮮半島諸国の密接な交渉がうかがえます。それが次の半岩陰・半露天祭祀の段階に入ると、朝鮮半島製のものに代わって、中国製の金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう)や唐三彩(とうさんさい)といったものが奉献されるようになります。これは、何を意味するのでしょうか。
航海安全と国家安泰を祈願
七世紀の初め、推古天皇は、東アジアの先進国である中国の文化を摂取するために、使者を隋に派遣します。いまだ国内の情勢は不安定で、政権を維持するには隋との国交が不可欠だったのです。推古天皇15年(607)に派遣された有名な小野妹子(おののいもこ)を含め、18年間に5回以上の遣隋使(けんずいし)が派遣されました。
推古天皇26年(618)、隋が滅んで唐が興ると、使節はそのまま遣唐使となり、寛平6年(894)に廃止されるまで、17回にわたって正使を唐に送りました。このころ日本は律令国家としての体制を着々と築いていた時期で、先進国である唐から律令文化を導入する必要があったのです。
当時の遣唐使船は、平底のジャンク船に似た箱型のもの。横波に弱く、無事に往来できる可能性は極めて低く、まさに命がけの航海でした。このころ、沖ノ島の祭祀は、その航海安全を祈願するために、中央政権の命によってたびたび執り行われましたが、遣唐使が廃止された9世紀末以降、沖ノ島での国家的祭祀は急速に終わりを迎えます。



